あの世に何を持っていく?
棺
人間の死亡率は100%。ほぼ全員がいつか棺に入ります。
一般的な棺は、約縦180センチ横50センチ高さ45センチほどの箱です。
「ひつぎ」という漢字は2種類。中身が空だと「棺」ご遺体が入ると「柩」となります。
素材は大抵の棺が、木で出来ている。表面に布が張られていたり彫刻がしてあったりと様々な種類があります。
1年に1度行われるエンディング産業展などでは紙で出来た「地球にやさしい棺」や「仮屋崎省吾プロデュースの花柄の棺」など、毎年新作の棺が展示されます。
私は今まで多くの方を棺に納めるお手伝いをしてきました。
沢山の柩を見てきましたが、同じものは一つもありません。
それは、棺の外見ではなく中身のお話です。
柩の中は、その人の人生が詰まっていると感じます。
農家のご主人が亡くなった時、口数少ない息子さんが稲を一房、顔脇に添えました。
父親がどのくらいの時間を費やし、その稲に向き合ったかを一番近くで見ていた息子さんからの最後の「お疲れ様」の言葉のようで、なんだかお父さんの表情も晴れ晴れしているように見えました。
競馬が好きなお父さんは、たくさんの馬券と鉛筆、競馬新聞が添えてありました。
孫が20人もいるお婆ちゃんは、孫が書いた絵や手紙、折り紙に埋もれるように眠っていたし、生涯独身を貫き出版社に勤めていた女性は、自分が携わった本を大切そうに抱えていました。
棺の中にいれたものが煙となり、亡くなった人の「あの世に持っていくもの」となるなら
私は何をあの世にもっていくだろと考えることがあります。
韓国や台湾、中国のある地域では偽物のお金をたくさん入れますが、
日本でも三途の川を渡るの「六文銭」を入れます。死んでからもお金が必要だとは思いたくないのですが…。
まず、携帯電話。写真や思い出がたくさん詰まっているし、49日の旅の途中の暇つぶしにもいいと思います。しかし、最近では火葬場で棺に入れる物への規制があり、原則「燃えるもの」という決まりがあるので携帯は無理となります。
好きな食べ物も入れてほしいと思います。お酒もビールを入れて下さい!といいたいのですが「ビール缶」は無理なので、紙パックの小さな日本酒ぐらいになってしまいそうです。
100歳を超えるお婆ちゃんは「うなぎ」が大好きで鰻のかば焼きを入れていた。一瞬火葬場から鰻のかば焼きの香ばしい匂いが漂ってくる光景が目に浮かびます。
好きな食べ物は日本酒とかば焼きの組み合わせがよさそうそうです。
自慢できる趣味や特技があれいいと思います。
例えば、お茶や踊りの先生は着物やお茶の道具を入れます。そういうものに囲まれている方は亡くなってからも「品」があるように見えて、強く憧れますがが、どう考えても私らしくはない気がします。
ひとつ、亡くなった方から教えてもらい、始めた事があります。
「御朱印帳」
60代の奥様のお棺の中には、全国の神社やお寺でいただいた10冊以上のご朱印帳が納められていました。ご主人はそのご朱印帳を1つ1つゆっくり広げながら「二人で回った、旅の記録なんです」と話していらっしゃいました。
私もそんな素敵な夫婦に憧れてご朱印帳をはじめましたが、残念ながらまだ、主人に一緒に行こうとは言えず、一人でこそこそ集めています。
仕事先のお寺や、休みの日に神社をめぐってゆっくり集めているので、亡くなった時には柩の中にぜひ入れてほしいです。
目に見えないものを柩に入れる方もいます。
香りは人の思い出に大きな役割をもっているようで、その人が使っていた香水を柩の中にふり、香りで柩を満たします。その香りは亡くなった人の、元気な頃の思い出を引き出し、そこにいる家族みんながその思い出を共有する空間となります。
私も最後は自分の好きな香りに包まれたいなぁと思います。
柩はその人の人生が詰まった宝箱のようなものです。
しかし時々、「この布団、もう使わないから一緒に入れちゃおう」とか「服は捨てるのが面倒だから全部いれちゃって」という人が本当にいるのです。
柩はごみ箱ではないのです! 宝箱だってば!
そこで、はたと気づきます。
柩の中に「あの世に持っていくもの」を入れるのは、私ではないのです。
私には主人も息子もいるのですが私の好きなもの、趣味、大切にしているものを柩にいれてくれるのかな?
柩は亡くなった人の宝箱ではなく、誰かと過ごした時間と思い出がつまっている残された人の宝箱です。
そう考えると、自分の好きなもので満たそうとする事には意味がないような気がします。
それよりも、大切な人と、どんな時間を過ごしたのか? その人の心に何を残せたのか?
そのことの方がずっと重要だと感じます。
私は納棺師という仕事の中で、生きている時には会った事がない、柩の中の知らない人の顔を眺めます。
そして、忙しく流れていく時間に紛れて見えなくなってしまう大切なものに気づかせられます。
さて、私が死んだとき何が私の顔を縁取るのかしら。