亡くなった後の夫婦喧嘩
大切な方を失ったご遺族の頭の中は決していい想い出だけではない。嫌な想い出、辛い想い出の中で止まっている方もいます。それはおかしいことじゃない。
以前納棺式でご遺族のお手伝いをしていた時の話。
亡くなったのは70代の男性、喪主の奥様、娘さん二人と息子さんとそのお嫁さん。お孫さんが数人のお立ち合いでした。
都内にありながら、お庭の広い一戸建てで、議員さんをされていたという男性は枕花に囲まれておやすみになっています。
二部屋続きの和室は畳が替えられたばかりなのか、縁がピシッと光り、い草の香りがします。
お家はそれなりに歴史遠感じる古さがありますが、この部屋だけは特別な空間となっています。掛け布団も敷布団も分厚く、お布団に寝ている故人にとっては気持ちのよい状態ですが、膝を布団の上に乗せて亡くなった方の手当てをする納棺師にとってはこの段差は困りものです。スキージャンプの選手が今まさに、ジャンプ台を飛び出したような格好では腰が耐えられず、布団の下に足を潜らせてお手当をしていきます。
お布団の周りには今日着せるであろう三つ揃えの紺のスーツと白いワイシャツと赤いネクタイが広げてあります。枕の脇には手紙や写真が何枚も置かれていました。
ご病気で痩せてはいるものの、きっと良き夫であり、自慢のお父さんであり、威厳のあるおじいちゃんだったんだろうなと感じました。
納棺式が始まりスーツに着せ替えるとおじいちゃんカッコいい!の声があちこちから聞こえてきてきます。授業参観日に一度お父さんがきた時に、父兄の方達が子供ではなくお父さんを見ていた話や、剣道が強かった話。50代ぐらいの娘さん2人と息子さんが中心となり自慢のお父さんの話で盛り上がっています。
こうなると納棺師は一歩引いてご遺族にお任せです。改めてご遺族の様子見てみるとー。
思い出話に盛り上がるごきょうだい、それを聞いて笑っている孫達。いい光景です。
お嫁さんは静かに写真を眺めています。奥さんはと視線を移すと、、、あれ?全く笑ってません。みんなを見ているようで見ていない。なんか違和感があります。疲れているのかな?とも思いましたが、ちょっと違うようにも見えます。
最後のお蓋じ閉めの際に、ご遺族の輪の後ろにいる奥様に、何か気になることはないか確認しました。棺に入った後顔も見ていない奥様に、これから棺の蓋を閉めることも伝えました。
すると優しそうな品のいい奥様から、
「あの人はみんなが言うようないい人じゃない」と絞り出すような言葉が漏れ出ました。
棺の周りにいる家族には聞こえないような小さな声でしたが、かすれたその低い声に、私は心臓を掴まれたみたいにドキッとしました。どんな方だったのですか?と聞きましたがその後は一言も話されることはありませんでした。
大切な人を亡くしたという共通の出来事に家族は別々の反応を見せます。
いつまでも悲しい人もいれば、想い出を振り返って笑顔の人もいるし、嫌な思いでの中で固まっている人もいます。
中にはその違いから心を閉ざしてお別れの時間を過ごす方もいらっしゃいます。
いいお父さん、いいおじいちゃんという家族の印象の中で奥様は口を閉ざしていました。
納棺式の中で奥様の本当の気持ちを聞くことはできませんでしたが、葬儀の担当者に引き継ぎをして帰りました。後で聞いたお話ではお葬儀が終わったあと、奥様の愚痴がすごかったと聞きました。
納棺師さんが言ってた「ずっと近くにいたからこそ他の方と違う側面を見ていたのかもしれない」って言葉そのまま奥さんにいったら、初めて泣いていたよ。
担当者さんがもし、いいご主人だったのですねとか言っていたら、奥さんはまた気持ちの蓋を閉めてしまっていたかもしれない。
今回は担当者さんと連携が取れて上手く?行きましたが、しばらくは納棺式で私がかけた「どんな方だったのですか?」と問いも奥さんにとっては責めてるように聞こえてたかもなあとか、あの時、奥さんに言われた一言を私はちゃんと受け止めていたかな?と自問自答しながら過ごしました。
身近な悲しんでる方の側にいるとき、つい自分が感じている印象を抱えて話をしてしまうことがありますよね。ご主人いい人だったよね。いつも綺麗な奥さんだったよね。
そんな言葉がご遺族を癒すと信じている。
でも本当にそうなのかな。
生きていれば夫婦喧嘩もできて、嫌なところも言い合える。亡くなってしまうと急にそれができなくなってしまうのです。亡くなった人の悪口は言えずに心の奥に閉めてしまうことが多いから。
私も時々旦那の愚痴を友達に話すこともある。その時は頭にきて、話もしたくないと思うだけど一緒にいるとまた、新しい日々が重なって私と旦那の想い出になっていく。もちろんまた、喧嘩をして、怒ったり泣いたりしてる時もあるけどその中には笑ってる私や喜んでる私もいるんだよね。
だから、
亡くなった方の文句や愚痴も言ってもいい。
そこで止まらず歩き始める為には亡くなった後の夫婦喧嘩も必要なのかもしれない。
ブログ再開 本の出版と地元
いろんな方のお力をいただき、11月17日ブログが本となり発売されました。
ここ数日は有難いことに、本の感想が届いてます。私がどんなに感動感謝しているか伝えたいけど、どの言葉も足りない気がして結局
「ありがとうございますー」、、、足りないなぁ
夜ハイボールを飲みながら、感想を読んでは泣いている私を、家族は遠巻きに見て「また、泣いてるー苦笑」と呆れてます。
そんな中、地元仙台に帰ってきました。
24歳の時、転勤族の旦那とまだ小さな子ども達と仙台を離れて28年。
もう離れていた時期の方が長いので最近はお客さん気分で過ごしています。なので迎える側もお帰りーってよりは『よく、ござったねー(よく来たね)』って感じ。
でもずっと、いつか地元で何かしたいと思っていました。家族もそれぞれ独り立ちし、27年経ってようやく、その時期になったんだなって思います。
あらためて考えてみると、今まで私は自分の住む場所でハイヒールを履いて少し背伸びして、カッコ悪くないように頑張って歩いてきだなぁと思います。
まぁ、実際には、年齢とともにヒールの高さは徐々に低くなっていますが、、、。
それでも背伸びしたからこそ、見えた景色もありました!疲れた時や、つまずいた時に支えてくれる人もたくさんいて、、、ここでも、まだまだやりたいことがたくさんあります。
だけど、これからは、時々地元で裸足になって歩こうと思います。
もちろんこれは例えで、実際に裸足で歩いてたら寒くてしょうがないわけで、、、。それぐらい自分らしく大好きな地元を味わいながら、進んでいきたいなぁと感じだってことです。
寒さも少しづつ増している仙台。コロナ禍で久しぶりに帰って、温かい場所と温かい人達に包まれた数日間でした。
また来月帰るよ。その時はお帰りーって言ってくれるかな。
口元気にしてます!
納棺師としてのお仕事は先月で卒業したのですが、ふと思い出して笑ってしまうことがあります。
10月のある日の出来事。
4月入社の新人さんがそろそろ独り立ちの季節。
このところ、現場に一緒に行くことが多いのですが、体力も気力も必要で正直いうと、しんどいなあと思うこともあります。
だけど、やっぱり人を育てるって大切だし、1人じゃ味わえない出来事もあります。
朝、新人さんが真顔で
「亡くなった方の口が元気ってどういう状態ですか?」
と質問してきました。
私「???」
現場に行く際には、指示書の様なものがあって、故人の年齢や性別、現場の情報なんかが書いてあります。
指示書を見ると
「故人の口元気にしてます」
新人よ。切るところ間違ってるよ
口元、気にしてるんだよ、、、と思ったけど
「元気ですかー!の、かー!ってぐらい大きな口開けてるって意味かな」と教えてあげた。
心の中でお腹が捩れるほど笑った。
これは、1人じゃ味わえない。
真剣な顔で考え込んでる新人さんが、ベテラン納棺師になったとき、今日のことを一緒に笑いたい。
よいお母さんになりたい私
今まで何人ものお母さんの納棺式を見てきました。
どんなに仲が悪くケンカばかりしていたとしても、会話がなくなっていた親子であっても「死」という出来事は、親子や人とのつながりを考え、気づかせてくれる、亡くなった方から送られる最後のギフトに思えて仕方がありません。
もちろん、お母さんに限らず、亡くなる方すべてが、そのギフトを残していくのですが、お母さんの死や生き方に心を動かされるのは、私自身がお母さんであり、そのうえ子供とのこの関係性にあまり自信がないので「こんなお母さんでありたい」という一種のあこがれが影響しているように思えます。
七転八倒して生きてきた私が、子供達からどんな風に見えているのか、時々反省とともに、ふと考えたりします。
お友達と飲みすぎて玄関先で寝てしまって、「死んでるかと思った」と起こしてくれる長男、出掛ける時間ぎりぎりにパニック状態で探し物をしている私に「大丈夫、落ち着いて探そう」と一緒に探し物をしてくれる次男。
ほんとに神様はできた子供たちを私に送ってくれたものです。
興味のあることにすぐ飛びつき、ぶつかり、落ち込み・・・書けば書くほど私は母親として失格です。
そんな私ですが、この仕事が息子たちへのギフトを作ってくれていると思うことがあります。
10年以上前、突然、納棺師になろうと思う!と家族に宣言した時は、急な決断に家族全員が驚いていたようです。しかし、「葬儀のお手伝い」という私のざっくりした仕事内容の説明に、家族の誰一人が反対することなく見守ってくれていました。
これは普段からお互いを干渉しない全員B型の家族だったからなのか、それとも私を信じ、生き方を尊重してくれたからなのかはわかりません。
しかし、納棺師という仕事を始めたことが、私の考え方や生き方に大きな影響を与えました。今まで遠いところにあった「死」が急に日常になった私は、もう話したいことを毎日たくさん抱えてうちに帰ります。夕食の支度をしながら頭の中で「これは話せる話」「これは話せない話」と仕訳をして、夕ご飯が終わるとすぐに仕訳した「これは話せる話」をテーブルの上に広げてしまうわけですから、強制的に家族も巻き添えになります。
最初の被害者は主人だったと思います。仕訳を間違えて、仕事の話(特にご遺体の状況について)話してしまい、仕事の話は家に持ち帰らない!という旦那との新しいルールが出来てしまいました。
他にも亡くなった方に着物を着せる練習をしたくて、リビングのソファでうたた寝をしてる主人の体に着物をかけようとしていたら遺体役?!と怒られたこともありました。
納棺師の先輩にそのことを話したら、「寝ているご主人に気づかれないように着せられたら一人前!」と言われて「そうか」と、妙に納得したことを思い出します。
出張が多く留守がちな主人よりも被害が大きかったのは息子たちだったかもしれません。
納棺師として働き始めた頃、高校生一年生と中学3生の息子達は、思春期真っ只中で、当時はどんどん会話も少なくなっていました。
ご飯を食べたらすぐ2階の自分の部屋に入って、毎日オンラインゲームや友達と楽しそうに話していている時期でした。時々寂しくて、ねえねえと部屋に入っていくと、「今、忙しいから別な日に聞くよ」と優しく追い出されることもしばしば。
当時、私が納棺師という仕事を始めた事をどんな風に思っていたのか聞いてみると
「いつも、好きなことをやってるなぁ思っていた」という長男。
「何をやってるのか、あまりわからなかったけど、距離感は丁度よかった」という次男。
なんだかクールなこの親子の距離感にはいつも戸惑います。
それでもこの仕事を初めてからは話をすることが増えました。
まだ納棺師になって間もないころ、自殺をした女子高校生のメイクを担当したことがありました。火葬までの数日間、毎日のように「顔が変わった」と葬儀社に連絡が入り、何度か自宅へ伺いました。私が見た限りあまり変わった様子はなかったのですが、「口角が下がった気がする」「顔の輪郭が変わってきた」「髪型の印象が違う」とお母さんは変化したと感じる場所を次から次と指摘します。口紅の描き方を変え、棺の中の枕の高さを変え、髪型を何度も整え、どんどん出来ることがなくなっていくのを感じつつ、どうにか工夫をしながら要望にお応えしようと努力しました。
きっとお母さんの心の中には、笑った娘さんの可愛い顔が大切にしまってあるのですから、それは、変わってしまったように見えて当たり前です。行くたびに娘さんの思い出話を一時間程話し、最後には必ず焼香に来るお友達はこれからも生きていくのに、この子だけ止まっちゃったのよね。と肩を落とすお母さんを見ていると胸が苦しくなります。
プロとして悲しんでいる方の側に立つとき、自分の持つ常識や考え方、感情を一旦脇に置いて、その人の感じていることをそのまま受け止めることが大切と学んできました。しかし、私は心のどこかでお母さんという自分の立場に重ねて、娘さんがいなくなったことを悲しみ、怒っています。
「あなたとのお別れに、こんなに悲しんで苦しんでいる人がいるのが見える?もし、生きている時に感じることができたら死ななかった?」と心の中で亡くなった娘さんに何度も問いかけてしまいます。
そして、私は家に帰るとこの心の中のモヤモヤをどうしても子供達に伝えておかなきゃと思うのです。
「自殺をしたその子がもし、ご両親の愛情に気づけていたらどうだったかな。私も君たちを大好きってことが伝わっているかが心配になったんだ」
「大丈夫だよ」と苦笑いする息子たち、それでも自分たちが感じたことを話してくれます。
その後も、納棺師として私が、亡くなった方から教えてもらった様々な物語を、息子たちに何度も話してきました。
自殺について、なぜ死ななくてはいけないのか、亡くなった人はどこにいくのか、いじめについて、LGBTについて・・・。
はじめは一方的な私の話でしたが、時間が経つにつれて息子たちからも自分の考えが聞けるようになって、我が家では「死」に関する話題があたりまえになりました。
相変わらず息子たちはゲームの中で、戦い、誰かを倒していますが、もちろんそれが現実の「死」とは別物で、現実の「死」が生きる人たちに与える影響について知っています。
彼らが今後、必ず経験する誰かとの死別。その時私はいないかもしれません。だけど唯一母親として残したものがその時、役にたつなら私もすごいお母さんの仲間入りができるのかもしれない、と希望も込めてそんな風に思ったりします。
本になるのかあ?
埼玉から電車を乗り継ぎ「神楽坂」へ
出口を教えてもらっていたのに、間違えたお陰でなんだかお洒落な街並みを眺めながら歩くこと、10分。
着いたのは「新潮社」という出版社。
実は細々と書いていたこのブログが本になることに決まりましたー!!(本当に決まったのか?)
グリーフサポート研究所の認定資格を取るために、大人になって初めて書いた小論文があまりにも出来が悪く、愕然としたのは6年前。
文章を書くセミナーに参加したり、何度も小論文にチャレンジしたり…。ブログを始めたのも、そんなチャレンジの一つでした。
納棺式という、お別れの時間を知って欲しい。
大切な方とのお別れは必ず来るのに、誰もお別れの仕方を教えてくれない。
仕事を通して私が、亡くなった方に教えてもらったことを、どうにかたくさんの方に伝えたいってずっと思ってました。
そして、ブログをしていると、何の知名度もない私の記事を読んで、何かを感じてくれる人がいるんだって感激しました。
「いつか本という形でのこせたらな」ってっいう夢の話でした。
最近は体を壊したり、以前の様な働き方が出来ず、我慢や諦めることが多かったので本当に嬉しいです。
この後、出版社の方にお手伝い頂きながら、足りない部分の入稿を済ませ、来年本になる予定です。
しかし、何事にもすぐ不安になる私は、
本が本当に出来上がるのか。
(途中ポシャたらそっとしてあげてください)
本を手にしてくれる人がいるのか。
ずっとアワアワしています。
「夢じゃないかとほっぺたをつねる」って古いドラマの中でしかやらないことかと思ったけど、夜一人晩酌をしながら頬を、つねってみる。
そんなに痛くない…(多分アルコールのせい)
これから出版まで半年以上もアワアワしなくちゃいけないのかぁ。
どうぞ皆さま温かく見守って…ではなく、激しく応援してください。お願い。
上手くいかない日の話
(今回は亡くなった方のお体の変化について書いています。読みたくない方もいるかもしれません。)
新人納棺師さんが時々
「私じゃなければ、もっといいお別れが出来たかも...」と悩みを打ち明けてくれることがあります。
一生懸命自分の出来ることを行ったけど、技術的にもっといい方法があっただろう、と落ち込んでいるのです。
私はこの気持ちよくわかります。
なぜなら今現在、私自身、落ち込んでます。
私は研修、採用を担当しているのですが、そうは言っても納棺師でもあるので、時々納棺師として出動しています。
研修では偉そうに、故人の死後の変化や、ご遺族とのコミュニケーションについて話していますが、現場に出ると他のやり方があったよな。とか、配慮が足りなかった...。とよく落ち込んでます。
昨日、安置施設で、ご遺族の立ち会いがない、納棺を担当しました。故人はお体が大きく、手足は浮腫がありました。担当者さんはこのまま破裂するのでは?と心配されるほどでした。
お体を確認すると、これから体液や血液が鼻や口から出てくる可能性や、水疱と言われる表皮に水膨れができ、それが破れてしまう可能性があるなぁと想像ができました。
今現在は口や鼻から体液が出てきていないことを確認して、綿をしっかり詰めたり、上半身を高くするなどの対策をして、納棺しましたが結局、納棺してから数時間後、鼻から体液が出てきてしまいました。
大きな方なので、納棺する事で内臓が圧迫されたことが原因か、腐敗の進行を止めるために、20キロのドライアイスを置いた場所が悪かったのか、考え出すと反省ばかりです。
他にも体液が出たときに備えて、着物を汚さないように防水シートをかけて様子を見ればよかったとか、対策を取らなかったことに対しても、あーすれば、こーすればと考えます。
結局、別の納棺師が手直しに向い、一旦棺から故人を移動して、汚れた仏衣を着せ替えし処置をしてくれました。
これが、故人の大切な着物だったら?ご遺族が出血しているのを見ていたら?
もう、こうなると落ち込みの連鎖が止まりません。
そんな日に限って、次に向かったご自宅では若い女性の納棺です。在宅で見取りをしたご遺族は、私の一挙手一投足に注目しています。緊張しつつ、お顔に掛かった白い布をお取りすると、痩せたお顔は目が窪み、目が開いてこないように、紙テープが縦に2本、無造作に貼られていました。
生きてる方も美容の為にヒアルロン酸注射をすることがあります。亡くなった方にも同じようにお薬を注入して、目を閉じることができます。
特に痩せて目が窪んでしまった場合、綿などでふっくらさせるよりも自然に仕上がるので、こちらをお勧めします。
けれども遺族の前で目周りに注射針を刺す訳にいかず、慎重に綿で隠しながら手当てをします。目を閉じ、お顔周りの手当てが終わったら体のチェックです。
お布団を取ると下半身が、びちょびちょに濡れています。
水疱が破れ体液が外に漏れ出ていました。
体液特有の匂いも出ています。
暖かくなってくるこの時期、よく見る状況ではありますが、ご遺族がこの匂いを感じながら亡くなった方と日常を過ごされていたと考えると心が痛みます。
ご自宅での安置は、ご遺族が自分の生活の中で、無理なくゆっくりとした時間を過ごすことができます。しかし、安置施設と違い、温度や湿度などの環境管理が難しいですし、私たちが想像できない出来事も起こります。
以前おじいちゃんが寒そうだからと床暖房を入れていたご遺族がいました。もちろん、おじいちゃんは腐敗が進み背中を始めお顔まで緑色になりました。
ご自宅での安置はエンバーミングのような腐敗が進まないような処置を行うか、搬送の方、葬儀社会社の方、納棺師が連携して最適な環境づくりをしていくことが必須です。
今回は、これ以上体の変化が進まないように、水疱の処置をし、防水のズボンを履かせ、新しい布団、着物に着替えてお棺の中にが移動しました。
棺に入ったあと、なんとなくお顔の感じが変わったというご遺族に、私は最後まで寄り添えたか、自信がありません。
そしてその日から4日後の告別式まで、私の頭にはいつもその遺族や故人の顔がチラつきます。
新人納棺師さんが悩やむ
「私じゃなければ、もっといいお別れが出来たかも...」問題。
技術的にもっといい方法が、あっただろうと落ち込むことは、納棺師をしている限りずっと続きます。
だけど、ご遺族、故人が教えてくれたことや落ち込んだり、悔しい気持ちを経験して、自分経験を増やしていくことが、どこかの誰かの為になると信じて欲しいと思います。
そしてそのことを、今一番自分に、言い聞かせています。
最後にこんな私が、この落ち込みをどう解消しているのかというと...。
同じ納棺師仲間を捕まえて、聞いて、聞いてと話しまくります。流石に新人納棺師さんの前ではちょっとカッコつけたいという厄介な感情もありますので、話す人も限られますが、私はこれで自分自身を保っています。聞いてくれる納棺師も優しくヨシヨシと聞いてくれます。それはきっと、どの納棺師も経験する感情だからかもしれません。
暑くなってくるこの時期は、私たちの仕事の大変さと大切さを同時に感じる季節です。
桜の下の棺
桜の時期に思い出す光景
桜の季節になると、一枚の写真のように思い出す光景があります。
庭に咲いた桜の花。隣接する公園の桜の木と重なり、まるで切り絵のようです。桜の木の下には亡くなったお父さんが寝ている真っ白い棺が置いてあり、その周りで遺族が思い思いに話をしながら笑っています。
まるで映画のようなこんな光景を、一緒に見れるなんて、納棺師の特権だなと思います。
80代の男性の納棺式、いつものように担当者さんの後ろから、ご自宅の玄関に入ります。時代を感じる一軒家は、廊下や柱が赤茶色に色を変え艶々していて、きっと大切に住まわれてきたんだろうと感じる素敵なお宅でした。
廊下のつきあたり、縁側がある畳の部屋に亡くなったお父さんが寝ていらっしゃいます。襖を開けて一番先に私の目に飛び込んできたのは、桜の木でした。
木枠の古い引き戸が大きく開いていて、お庭の桜の木がきれいに花を咲かせています。しかもそれだけではなく隣接する公園の桜も見え、きれいに整えられた芝生とその奥に広がるピンク色に圧倒されてしまいました。
「みごとな景色ですね」とご挨拶も忘れて、お父さんの横に正座をしている奥様に声をかけると
「主人の趣味であった庭いじりのおかげで、みなさんにそう言ってもらえるんですよ」と穏やかに微笑んでいらっしゃいます。桜の名所となっている公園は、休日ではないものの、花見シーズンということもあり、すぐそばで小さな子供を呼ぶお母さん達の声が聞こえてきます。
厳しいお父さんの楽しみ
納棺式をはじめようと、ご遺族を呼ぶと50代後半ぐらいの息子さん二人とその奥様、高校生や20歳前後の子供たち(故人のお孫さん)5名が立ち会われ広い和室も少し窮屈に感じるほどでした。
少し広くしましょうと奥様が隣部屋の襖も開けました。するとそこは四方を本棚に囲まれた小さな部屋が現れました。
息子さんが部屋の中に座布団をひきながら「ここは立ち入り禁止だからな、親父怒るかもな」と笑ってます。
「すごい本!書斎ですか?」そう聞くと
「父は日本文学の先生だったからね、この部屋にいるときは、ご飯だと声をかけても出てこなかったし、子供のころはここは父だけが入れる特別な場所だったんですよ」と息子さんが部屋をみまわしながら答えてくれました。
「口数も少ない人だから、子供たちにとっては、どこか怖い存在だったかもしれませんね」
奥様がいうと息子さんたちも笑いながら同意します。
好きだった深い紺色の着物に着替えると「先生」らしく凛とした姿にご遺族の方々がホッとしたのか、会話が多くなりました。
口数の少なかったお父さんですが、家族が集まる恒例の花見をとても楽しみにしていたようです。孫が好きなあの料理を作ってくれと奥様に料理のリクエストしたり、毎年とっておきのワインを出してきたり、人数分の椅子を庭に用意したりと、体が動くうちは、お父さんが全て取り仕切って行う恒例行事でした。
老人ホームに入ってからもこの時期はお花見をしに帰宅していたようです。毎年撮った集合写真まで並べて見せてくれ、納棺式がなかなか進みません。
しかし、いつもの流れをふっ飛ばしてでも、聴きたい話でした。そして、ご遺族にとっても今話さないといけない、思い出でした。
皆さんで写真を見ながら盛り上がっているところで、私は会話から離れて納棺の準備をすることにしました。
実は部屋の入り口の作りが狭く、縁側から棺を入れようとあらかじめ準備をしていたのですが、花見の話を聞いていた担当者さんが、私にだけ聞こえる声で「ここに置いちゃおうか」とニヤっと桜の花の下に棺台を置きました。
その、いたずらを思いついたような顔と同じ顔で、「花見と言ったらお酒ですよね」と私は祭壇に飾ってあるワインを小さく指さしました。お父さんが好きだったワインです。
その提案を、担当者さんがご遺族に話すと、お孫さんたちが「おじいちゃんと花見できるの!?」と驚いたような声を上げていましたが、皆さん次々に玄関から靴を持ち庭へ移動します。棺にお父さんを移動して棺の中を綺麗に整えたところで、私は退席することになりましたが、花見はまだまだ始まったばかりです。
桜の木の下には、亡くなったお父さんが寝ている真っ白い棺が置いてあり、その周りでご遺族が思い思いに話をしながら笑っています。
お父さんとの最後のお花見。
映画だったら、きっとエンドロールが流れているに違いありません。
桜には大切な人との思い出があります。楽しい思い出があるからこそ、そばに大切な人がいないと桜の時期が辛く感じてしまうこともあります。
私の父は、ゴールデンウィークの頃に亡くなりました。両親が住んでいた仙台は桜がまだ咲いている頃です。
母は病院に行くたびに、涙を流さない様に病室の前で深呼吸して、今日何を話そうかと考えてドアを開けていたと話していました。
なるべく明るい話をしたくて、毎年行っていた桜の話をすることもありました。
「今年も見に行きたいね」と。
ある日父は、自分がもう桜を見れないのを感じたのかもしれません。母に「もう、桜の話はしないで」 と言ったそうです。その話を聞いた時、私は父や母がそんな辛い時間を過ごしているのかと涙が止まらなくなりました。
だから、桜をみると今でも私の心の中にはチクンと痛む場所もあります。
毎年綺麗に咲く桜。すぐに散ってしまうけど、桜の咲く時期には大切な誰かと、一緒に綺麗な桜を見たくなります。